人生は、苦難の連続。人は誰でも大きな苦難に遭遇する。自殺は選択肢に非ず!
人は誰でも大きな苦難に遭遇します。しかも人生に何度も。
貴方から見ると、他人はそれ程でも無いように見えますが、生きている限り誰人も間違いなく苦難に遭遇します。
何故私だけこんな目に合うのか、何故私だけは不運なのか・・・そうでは有りません。貴方だけでは無いのです。
人生は苦難の連続・・・目前に立ちはだかる大きな壁や困難。そんな時、人はどのように乗り越えるのか。
苦難が平等に有るのなら、生き抜いて成功した人はどのように思考して行動したのか(解決に至るプロセスは)?
その人にとてっての成功とは、経済的なものだけでは無く、言い換えれば「心の充足感」とも捉える事ができます。
貴方が探しても見つからなかったモヤモヤは、きっとそういう事では無いでしょうか?
日蓮が遭遇した大きな壁は、常に死と隣り合わせでした。常に命を狙われ続けた生涯でした。
しかも常人には経験し得ない大きな壁です。しかし、いずれも勝ち越えて見事に人生を勝利しています。
誰もが知りたいこの難問に対して、700年以上も前に生きた日蓮は多くの示唆に富んだ解答を、自らの体験を
通して示してくれています。その体験は、現代人の想像を絶するそびえ立つ様な大きな壁を乗り越えた体験です。
下記は、日蓮が歩んだ人生の大きな略歴です。ここには大きな苦難の概略だけ紹介しています。
これらの難題に対する答えを自らの行動を通して証明してみせた点で、現代人にも通じる普遍的な
「人としての振る舞い」が日蓮の人間的な魅力と共に伝わってきます。
自殺は選択肢に非ず!自殺に関して、仏法的には過去世の宿業に加えてさらに今世の悪い宿業を命に刻み、
比喩的な表現として、地獄界で例えようのない苦しみを非情に長い時間味わうとされ、許されて再誕する際も
蛇などの醜い姿となって現れるとされています。何があっても、自ら命を絶つ事は止めて、強く生きる事を考えて!
貴方から見ると、他人はそれ程でも無いように見えますが、生きている限り誰人も間違いなく苦難に遭遇します。
何故私だけこんな目に合うのか、何故私だけは不運なのか・・・そうでは有りません。貴方だけでは無いのです。
人生は苦難の連続・・・目前に立ちはだかる大きな壁や困難。そんな時、人はどのように乗り越えるのか。
苦難が平等に有るのなら、生き抜いて成功した人はどのように思考して行動したのか(解決に至るプロセスは)?
その人にとてっての成功とは、経済的なものだけでは無く、言い換えれば「心の充足感」とも捉える事ができます。
貴方が探しても見つからなかったモヤモヤは、きっとそういう事では無いでしょうか?
日蓮が遭遇した大きな壁は、常に死と隣り合わせでした。常に命を狙われ続けた生涯でした。
しかも常人には経験し得ない大きな壁です。しかし、いずれも勝ち越えて見事に人生を勝利しています。
誰もが知りたいこの難問に対して、700年以上も前に生きた日蓮は多くの示唆に富んだ解答を、自らの体験を
通して示してくれています。その体験は、現代人の想像を絶するそびえ立つ様な大きな壁を乗り越えた体験です。
下記は、日蓮が歩んだ人生の大きな略歴です。ここには大きな苦難の概略だけ紹介しています。
これらの難題に対する答えを自らの行動を通して証明してみせた点で、現代人にも通じる普遍的な
「人としての振る舞い」が日蓮の人間的な魅力と共に伝わってきます。
自殺は選択肢に非ず!自殺に関して、仏法的には過去世の宿業に加えてさらに今世の悪い宿業を命に刻み、
比喩的な表現として、地獄界で例えようのない苦しみを非情に長い時間味わうとされ、許されて再誕する際も
蛇などの醜い姿となって現れるとされています。何があっても、自ら命を絶つ事は止めて、強く生きる事を考えて!
日蓮大聖人ご生誕と立宗宣言
ご生誕
誕生日:1222年2月16日(約786年前)
生誕地:安房の国(千葉県安房郡天津小湊町)の漁村
述懐:「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出たり」(漁村の貧乏な庶民階層の生まれ)
立宗宣言
年:1253年4月28日
場所:(千葉県)清澄寺・持仏堂
改名:蓮長から日蓮へと改名する
使命:●法華経こそが釈尊の説いた一切教の中で最も優れた経典である。
●自身が悟った妙法は、法華経の肝要法である南無妙法蓮華経である。
●法華経において末法の人々を救う使命を仏から託された地涌の菩薩にあたり、
中でもそのリーダー上行菩薩の再誕として現代以降に妙法を広める使命がある。
●今の日本に広められている諸宗の教義には、正法である法華経に背く ”謗法” がある。
心境:南無妙法蓮華教を宣言し流布すれば父母・兄弟・師匠にも国主(幕府権力)の迫害が必ず競い起るだろう。
しかし宣言して流布して行かなければ、慈悲の心が無い。
経文に照らし合わせてこの難問を考えた場合、広宣流布しないでおけば生きている間には何も起らない
であろうが、後生には必ず無間地獄に落ちるであろう。広宣流布していくならば生命の危険が必ずつきまとう。
結論:「二辺の中には・いうべし・・中略・・今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ。」
誕生日:1222年2月16日(約786年前)
生誕地:安房の国(千葉県安房郡天津小湊町)の漁村
述懐:「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出たり」(漁村の貧乏な庶民階層の生まれ)
立宗宣言
年:1253年4月28日
場所:(千葉県)清澄寺・持仏堂
改名:蓮長から日蓮へと改名する
使命:●法華経こそが釈尊の説いた一切教の中で最も優れた経典である。
●自身が悟った妙法は、法華経の肝要法である南無妙法蓮華経である。
●法華経において末法の人々を救う使命を仏から託された地涌の菩薩にあたり、
中でもそのリーダー上行菩薩の再誕として現代以降に妙法を広める使命がある。
●今の日本に広められている諸宗の教義には、正法である法華経に背く ”謗法” がある。
心境:南無妙法蓮華教を宣言し流布すれば父母・兄弟・師匠にも国主(幕府権力)の迫害が必ず競い起るだろう。
しかし宣言して流布して行かなければ、慈悲の心が無い。
経文に照らし合わせてこの難問を考えた場合、広宣流布しないでおけば生きている間には何も起らない
であろうが、後生には必ず無間地獄に落ちるであろう。広宣流布していくならば生命の危険が必ずつきまとう。
結論:「二辺の中には・いうべし・・中略・・今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ。」
庶民の平穏な暮らしを願って、命を削る思いで戦いを開始!権力者に一歩も引かず
立正安国論(りっしょうあんこくろん) (読み方=正を立て国を安ずる)
記述:1260年7月16日 国中に飢餓や天変地異が発生している状況を憂いて論文を記述される。
宛先:幕府権力者の北条時頼(軍事治安担当)に宛てて、提出された。
内容:(趣旨抜粋)天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背き邪法を信じているからである。
その邪法の元凶は法然が広めている念仏にあると指摘し、念仏をやめ正法を信受すれば
平和楽土が出現するが、念仏をやめなければ経文に書いてある災難の内、未だ発生していない
国内の内乱(自界叛逆難)と他国からの侵略(他国侵逼難)の二つが起るでしょうと予告
(警告)し、 正法に帰依するように進言された。
実証:自界叛逆難・・・1272年北条一門内部の同士討ちが起り、鎌倉と京都で戦闘。
他国侵逼難・・・1274年10月・蒙古の大軍が九州を襲い多数の犠牲者が出た。
記述:1260年7月16日 国中に飢餓や天変地異が発生している状況を憂いて論文を記述される。
宛先:幕府権力者の北条時頼(軍事治安担当)に宛てて、提出された。
内容:(趣旨抜粋)天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背き邪法を信じているからである。
その邪法の元凶は法然が広めている念仏にあると指摘し、念仏をやめ正法を信受すれば平和楽土が出現するが、念仏をやめなければ経文に書いてある災難の内、未だ発生していない
国内の内乱(自界叛逆難)と他国からの侵略(他国侵逼難)の二つが起るでしょうと予告
(警告)し、 正法に帰依するように進言された。
実証:自界叛逆難・・・1272年北条一門内部の同士討ちが起り、鎌倉と京都で戦闘。
他国侵逼難・・・1274年10月・蒙古の大軍が九州を襲い多数の犠牲者が出た。
大難の認識「賢者は喜び愚者は退く」 ・・・ 何度も命を狙われ続けた破邪の生涯
松葉ケ谷の法難(まつばがやつのほうなん)
年:1260年8月27日の夜(立正安国論提出から約1ヶ月)
状況:幕府執権・北条氏を後ろ盾にした念仏者たちが、日蓮大聖人を殺害しようとして松葉ケ谷の草庵を襲撃
背景:権力者に迎合し、正しい仏法を広めようとした日蓮大聖人を迫害したのは袈裟を着た殺人者であった。
幸いにも、この時は難を逃れ、一旦鎌倉を離れることとなった。
年:1260年8月27日の夜(立正安国論提出から約1ヶ月)
状況:幕府執権・北条氏を後ろ盾にした念仏者たちが、日蓮大聖人を殺害しようとして松葉ケ谷の草庵を襲撃
背景:権力者に迎合し、正しい仏法を広めようとした日蓮大聖人を迫害したのは袈裟を着た殺人者であった。
幸いにも、この時は難を逃れ、一旦鎌倉を離れることとなった。
権力者と結託した高僧による画策で伊豆へ流罪される
伊豆流罪(いず・るざい)
年:1261年5月12日
状況:権力者に阿る念仏者たちの画策により幕府が日蓮大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流罪する。
背景:天変地異の元凶を念仏であると断じた立正安国論を幕府権力者の北条氏に提出した為、
権力者やその夫人と結託した念仏者の画策により伊豆へ流罪される。
赦免:1263年2月北条氏により流罪を赦免され鎌倉へ帰る
年:1261年5月12日
状況:権力者に阿る念仏者たちの画策により幕府が日蓮大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流罪する。
背景:天変地異の元凶を念仏であると断じた立正安国論を幕府権力者の北条氏に提出した為、
権力者やその夫人と結託した念仏者の画策により伊豆へ流罪される。
赦免:1263年2月北条氏により流罪を赦免され鎌倉へ帰る
破邪の書が生んだ法難 … 闇夜に乗じた夜襲・軍勢による襲撃
小松原の法難(こまつばらのほうなん)
年:1264年11月11日
状況:安房(千葉県)天津(あまつ)へ向かう途中、小松原(こまつばら)において地頭の東条影信の軍勢に
襲撃される。この時の戦闘によって弟子1名と信徒1名が死亡し、日蓮大聖人も額に傷を負い、
左手を骨折されました。
年:1264年11月11日
状況:安房(千葉県)天津(あまつ)へ向かう途中、小松原(こまつばら)において地頭の東条影信の軍勢に
襲撃される。この時の戦闘によって弟子1名と信徒1名が死亡し、日蓮大聖人も額に傷を負い、
左手を骨折されました。
首刑場へ … 苦難に立ち向かう心境 「これほどの悦びをば・わらへかし」
竜の口の法難(たつのくちのほうなん)
年:1271年
状況:鎌倉の処刑場・竜の口で首を切られ処刑されようとした瞬間、江ノ島の方向から球状の発光物体
が夜空を北西の方向へと走り、兵士達がこの状況に恐れをなして刑の執行が不可能と成った。
背景:1268年・蒙古国からの国書が日本(幕府)へ届き、蒙古の要求に応じなければ戦を仕掛けると書かれていた。
日蓮大聖人は「立正安国論」で予言した他国からの侵略が現実となって具体化した事を案じて、
「安国論御勘由来」と言う論文を幕府に提出して、念仏などへの帰依を止める様に説得しました。
しかし、幕府は日蓮大聖人の論文を受け入れず無視した為、大聖人は当時の執権(権力者)北条氏や
幕府の要人、および極楽寺良寛・建長寺道隆・など鎌倉の諸大寺の有名僧侶ら11箇所に手紙を送り、
他宗と公の場での対決(法論による決着)を呼びかけました。しかし、幕府も他宗も誠意ある対応を行わない
ばかりか、幕府は日蓮大聖人とその門下を危険な人物(宗教)と判断し、弾圧を検討していました。
日蓮大聖人は激化する迫害(流言飛語・夜襲・門下への事実無根の罪人扱い)にも屈せず、諸宗の誤った
教え(教義)を破折(間違いを指摘し正しく導くこと。念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊)し続けました。
1271年に全国的な大干ばつが発生。日蓮大聖人は、当時の幕府と結びついて大きな政治的影響力を
誇っていた僧侶の極楽寺良観(真言律宗)が祈雨の法(雨乞い)を行うと聞き、その効果の有無をもって
勝負することを良観に申し入れました。勝負の判定方法としては、もし良観が7日以内に雨を降らせたなら
良観の勝ちとして日蓮大聖人が良観の弟子と成り、もし7日以内に雨を降らせる事が出来なかったならば
良観が日蓮大聖人の門下に入ると言う内容でした。良観が祈雨の法(雨乞い)を行った6月18日からの7日間
雨は一滴も降らず、さらに7日間の日延べを申し入れ祈りましたが雨は降らず暴風が吹き荒れ良観が敗北。
しかし、良観は敗北を認めず部下の念仏者・行敏の名で日蓮大聖人を訴えてみたり、幕府の要人やその夫人
達に働きかけて権力による日蓮大聖人への弾圧を企てました。(詳しくは種種御振舞御書などを参照下さい)。
9月12日の夕方、平左衛門尉が武装した兵士を従えて松葉ケ谷の草庵を蹂躙し、日蓮大聖人は捕らえられ
ました。幕府の審判は佐渡流罪の刑でしたが、平左衛門尉は密かに日蓮大聖人を斬首刑にすることを計画し
夜半に鎌倉の竜の口と言う刑場へ連れ出し日蓮大聖人の首を切ろうとしましたが、刑が執行されようとした時
球状の発光飛行物体が夜空を北西の方角へ横切り、これを見た兵士達が恐れをなして処刑できませんでした。
年:1271年
状況:鎌倉の処刑場・竜の口で首を切られ処刑されようとした瞬間、江ノ島の方向から球状の発光物体
が夜空を北西の方向へと走り、兵士達がこの状況に恐れをなして刑の執行が不可能と成った。
背景:1268年・蒙古国からの国書が日本(幕府)へ届き、蒙古の要求に応じなければ戦を仕掛けると書かれていた。
日蓮大聖人は「立正安国論」で予言した他国からの侵略が現実となって具体化した事を案じて、
「安国論御勘由来」と言う論文を幕府に提出して、念仏などへの帰依を止める様に説得しました。
しかし、幕府は日蓮大聖人の論文を受け入れず無視した為、大聖人は当時の執権(権力者)北条氏や
幕府の要人、および極楽寺良寛・建長寺道隆・など鎌倉の諸大寺の有名僧侶ら11箇所に手紙を送り、
他宗と公の場での対決(法論による決着)を呼びかけました。しかし、幕府も他宗も誠意ある対応を行わない
ばかりか、幕府は日蓮大聖人とその門下を危険な人物(宗教)と判断し、弾圧を検討していました。
日蓮大聖人は激化する迫害(流言飛語・夜襲・門下への事実無根の罪人扱い)にも屈せず、諸宗の誤った
教え(教義)を破折(間違いを指摘し正しく導くこと。念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊)し続けました。
1271年に全国的な大干ばつが発生。日蓮大聖人は、当時の幕府と結びついて大きな政治的影響力を
誇っていた僧侶の極楽寺良観(真言律宗)が祈雨の法(雨乞い)を行うと聞き、その効果の有無をもって
勝負することを良観に申し入れました。勝負の判定方法としては、もし良観が7日以内に雨を降らせたなら
良観の勝ちとして日蓮大聖人が良観の弟子と成り、もし7日以内に雨を降らせる事が出来なかったならば
良観が日蓮大聖人の門下に入ると言う内容でした。良観が祈雨の法(雨乞い)を行った6月18日からの7日間
雨は一滴も降らず、さらに7日間の日延べを申し入れ祈りましたが雨は降らず暴風が吹き荒れ良観が敗北。
しかし、良観は敗北を認めず部下の念仏者・行敏の名で日蓮大聖人を訴えてみたり、幕府の要人やその夫人
達に働きかけて権力による日蓮大聖人への弾圧を企てました。(詳しくは種種御振舞御書などを参照下さい)。
9月12日の夕方、平左衛門尉が武装した兵士を従えて松葉ケ谷の草庵を蹂躙し、日蓮大聖人は捕らえられ
ました。幕府の審判は佐渡流罪の刑でしたが、平左衛門尉は密かに日蓮大聖人を斬首刑にすることを計画し
夜半に鎌倉の竜の口と言う刑場へ連れ出し日蓮大聖人の首を切ろうとしましたが、刑が執行されようとした時
球状の発光飛行物体が夜空を北西の方角へ横切り、これを見た兵士達が恐れをなして処刑できませんでした。
何度も命を狙われ続けた破邪の生涯 「難来たるを以って安楽と心得可きなり」
佐渡流罪(さどるざい)
年:1271年
状況:竜の口での処刑に失敗した幕府は、10月10日に相模の国・依智という場所から佐渡へ流罪の為移動され、
11月1日に佐渡の塚原と言う墓地に立てられた荒れ果てた三昧堂に入りました。
厳寒の気候に加えて衣食も乏しく、佐渡の念仏者からは命を狙われる(夜襲など)と言う状況が続きました。
御書:「塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、
上は板間あはず四壁はあばらに雪降りつもりて消ゆることなし、かかる所に敷皮打ちしき蓑うちきて夜を明かし
昼をくらす。夜は雪霰雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべき住まゐなり・・・」
年:1271年
状況:竜の口での処刑に失敗した幕府は、10月10日に相模の国・依智という場所から佐渡へ流罪の為移動され、
11月1日に佐渡の塚原と言う墓地に立てられた荒れ果てた三昧堂に入りました。
厳寒の気候に加えて衣食も乏しく、佐渡の念仏者からは命を狙われる(夜襲など)と言う状況が続きました。
御書:「塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、
上は板間あはず四壁はあばらに雪降りつもりて消ゆることなし、かかる所に敷皮打ちしき蓑うちきて夜を明かし
昼をくらす。夜は雪霰雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべき住まゐなり・・・」
破邪顕正の論戦で諸宗を論破・大勝利! 諸宗の僧侶らと法論対決を行う
塚原問答(つかはらもんどう)
年:1272年1月16日
状況:佐渡だけではなく近隣諸国から諸宗の僧侶など数百人が集まり、日蓮大聖人に法論を挑んだ。
日蓮大聖人は各宗の邪儀をことごとく論破され、仏法の正しさを証明した。
御書:「念仏者等・或は浄土の三部教・或は止観・或は真言等を小法師等が頸にかけさせ或はわきにはさませて
正月16日にあつまる。佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集まれる法師等なれば
塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集まりたり、
念仏者は口々に悪口をなし真言師は面々に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる・・・(中略)或は妄語
或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけり
と云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。」
数百人以上もの各宗派代表団と宗教の正邪を決する言論戦を行い、見事に大勝利を収めた。
有る人は捨てぜりふを残し、ある人は反論出来ず口を閉じ、ある人は顔色を失い、ある人は念仏は利益が無い
と言う者が居たり、あるいは即座に袈裟(法衣)じゅずを捨てて念仏を広めない主旨の誓いを立てる者が居た。
赦免:1274年3月 佐渡流罪を赦免され鎌倉へ帰られる。
年:1272年1月16日
状況:佐渡だけではなく近隣諸国から諸宗の僧侶など数百人が集まり、日蓮大聖人に法論を挑んだ。
日蓮大聖人は各宗の邪儀をことごとく論破され、仏法の正しさを証明した。
御書:「念仏者等・或は浄土の三部教・或は止観・或は真言等を小法師等が頸にかけさせ或はわきにはさませて
正月16日にあつまる。佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集まれる法師等なれば
塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集まりたり、
念仏者は口々に悪口をなし真言師は面々に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる・・・(中略)或は妄語
或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけり
と云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。」
数百人以上もの各宗派代表団と宗教の正邪を決する言論戦を行い、見事に大勝利を収めた。
有る人は捨てぜりふを残し、ある人は反論出来ず口を閉じ、ある人は顔色を失い、ある人は念仏は利益が無い
と言う者が居たり、あるいは即座に袈裟(法衣)じゅずを捨てて念仏を広めない主旨の誓いを立てる者が居た。
赦免:1274年3月 佐渡流罪を赦免され鎌倉へ帰られる。
事実無根の罪と農民信徒の死の悲しみを乗り越え、出世の本懐・大御本尊を建立
熱原の法難と大御本尊ご建立(あつはらのほうなん)
年:1274年5月17日 鎌倉から身延山に移住される
状況:幕府に対して何度も忠告やアドバイスを行ったにもかかわらず、用いられなかった為、古事にならい山深い
甲斐の国(山梨県)身延山(波木井郷熱原村)に移り住まわれ、論文の執筆や門下の育成に尽力された。
ここで、日蓮大聖人の仏法の奥義が日興上人に口伝された。(御義口伝など日興上人執筆に残る)
この頃駿河国(静岡県)富士方面では、日興上人(弟子・後の第2祖)が中心となって折伏弘教が拡大し
天台宗などの多くの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨て帰依するようになりました。
このために天台宗・四十九院や実相時などによる迫害が始まり、熱原郷・竜泉寺では院主代の行智が
策謀して農民信徒を脅迫する事件が起りました。
法難:1279年9月21日 熱原の農民信徒20人が院主の田に押し入って稲を刈り取ったと言う事実無根の罪で
逮捕され鎌倉に連行される。信徒は、平左衛門尉の私邸で厳しい取調べを受け、法華経の信心を捨てる様
脅されましたが全員がそれに屈せず信仰を貫きました。
その結果、神四郎・弥五郎・弥六郎の3兄弟が処刑され、残りの17人は追放されました。
本懐:農民信徒達の姿に、日蓮大聖人は、どんな大難でも耐える強き信心が民衆に定着したことを感じられて、
10月1日に著された「聖人御難事」の中で「出世の本懐」を遂げる時が来た事を宣言されました。
出世の本懐とは、仏がこの世に出現した目的と言う意味で、「一切衆生を救う」というご自身の大願を
実現するためです。
建立:1279年10月12日に「一閻浮提総与の大御本尊」を建立されたのです。
一閻浮提=全世界 全地球市民救済と言う日蓮大聖人の大願を込めて、広宣流布の為に著されました。
御入滅(ごにゅうめつ)
年:1282年10月13日 61歳
法門の一切と一閻浮提総与の大御本尊を日興上人に付属して、広宣流布の使命と責任を託しました。
年:1274年5月17日 鎌倉から身延山に移住される
状況:幕府に対して何度も忠告やアドバイスを行ったにもかかわらず、用いられなかった為、古事にならい山深い
甲斐の国(山梨県)身延山(波木井郷熱原村)に移り住まわれ、論文の執筆や門下の育成に尽力された。
ここで、日蓮大聖人の仏法の奥義が日興上人に口伝された。(御義口伝など日興上人執筆に残る)
この頃駿河国(静岡県)富士方面では、日興上人(弟子・後の第2祖)が中心となって折伏弘教が拡大し
天台宗などの多くの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨て帰依するようになりました。
このために天台宗・四十九院や実相時などによる迫害が始まり、熱原郷・竜泉寺では院主代の行智が
策謀して農民信徒を脅迫する事件が起りました。
法難:1279年9月21日 熱原の農民信徒20人が院主の田に押し入って稲を刈り取ったと言う事実無根の罪で
逮捕され鎌倉に連行される。信徒は、平左衛門尉の私邸で厳しい取調べを受け、法華経の信心を捨てる様
脅されましたが全員がそれに屈せず信仰を貫きました。
その結果、神四郎・弥五郎・弥六郎の3兄弟が処刑され、残りの17人は追放されました。
本懐:農民信徒達の姿に、日蓮大聖人は、どんな大難でも耐える強き信心が民衆に定着したことを感じられて、
10月1日に著された「聖人御難事」の中で「出世の本懐」を遂げる時が来た事を宣言されました。
出世の本懐とは、仏がこの世に出現した目的と言う意味で、「一切衆生を救う」というご自身の大願を
実現するためです。
建立:1279年10月12日に「一閻浮提総与の大御本尊」を建立されたのです。
一閻浮提=全世界 全地球市民救済と言う日蓮大聖人の大願を込めて、広宣流布の為に著されました。
御入滅(ごにゅうめつ)
年:1282年10月13日 61歳
法門の一切と一閻浮提総与の大御本尊を日興上人に付属して、広宣流布の使命と責任を託しました。
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